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思考を巡らせて

人文の大学生が身の回りのことをてきとーに書くブログ

一体何を学んできたのだろうか

人生は後悔の連続だ。つくづく思う。何から生ずるか。それは他人との比較、社会への適応、理想への想い、様々である。時間が足りない。時間さえあれば、ことが解決する。しかしそれは本当か。いやわからない。それともいわゆる努力だろうか。いやそれでも後悔が生ずる。カントが述べた人間観は人間は悪の根源である。ホッブズも同様に自然状態の危険性から国家を建設することを述べた。それならば、人間の後悔とは利己的な部分からやってくるのだろうか。大いにありうる。例えば、路上に老婆がいて、その老婆の前から車がアクセル全開で向かってくるとする。自分は路上外の老婆のすぐ近くにいて、自分は老婆を助けられる距離にいる。そして自分以外に老婆を助けられる者はいない。この場合二つの選択肢があると思う。一つは老婆を助ける。二つは老婆を助けず、傍観する。一つ目はもしかしたら老婆を助けても、自分がまきこまれる可能性があるかもしれない。しかし助けるという選択肢をとる。二つ目は自分がまきこまれる可能性に気後れし、助けることができない。または単純に道徳心によらず、助けない。今回の後悔というキーワードから着眼すると、この場合での後悔とは何だろうか。助けた場合、老婆自分共に生存できた場合は何の後悔もないだろう。(老婆が自殺願望があることは除く)しかしどちらか一方が生存できなかった場合は生存た一方は後悔の念を感じるだろう。老婆にしたら、私のせいで若い命が、、自分にしたら、助けられたのに、、、

老婆を助けられなかった場合も同様だ。なぜ、足元がすくんだのだろう、、、道徳心を無視した場合でも全く何も感じないといったことはおおよそないはずだ。この場合の後悔とは一瞬で行った行為、できなかった行為が永遠と自分につきまとい、もはや絶えず自分の人生に付きまとう負い目、後悔となる。ここから結論すると後悔は人間の本性に存するものだと考える。単に利己的なものだけではない。

 しかし私の人生を考えた時、後悔は利己的なものとなりうる。これは私にも共通することだ。よい生き方として他人と比較をせず、自分らしさをもって人生を歩むというようなテーマが人類に掲げられている。しかし本当だろうか。現代ではこのようなテーマを重視し、推進しているように見えるが実際はそうではない。常に他人との比較だ。何か人と違うものを持ち、人と違う行いをせよ。主体的な行動ができない奴は没個性となり、社会で要求される新しい価値を生み出すこと、問題を解決する能力を持たないとみなされる。社会が今求めているのはクリエイティブで安定的な人間だ。そこから目を背けていては、社会からは必要とされない。ならそうなれるか?多分大多数はなれない。そこには諦めとルサンチマンがある。いつしかそういった後悔が利己心に直結し、再び人間はその本性を現前とする。

 今私は迷う。何をしていいか。何をすべきが後悔を生み出さないのか。しかし私は振り返る。今までやってきた後悔の連続に。唯一の輝きが他人の考えを知ることなのは嘲笑ものかもしれない。時間がないとにかく。