思考を巡らせて

人文の大学生が身の回りのことをてきとーに書くブログ

God's not dead

2014年アメリカで公開された「God's not dead」という映画を見た。日本語であると「神は死んだのか」つまり直訳の「神は死んでいない」ではな、反語的な意味合である。この映画はアメリカで起こった様々な訴訟事件を基にして作られたもので、その内容とは、クリスチャンの学生が神の存在証明をするため、無神論者の哲学者教授と激論を交わすといったものだ。この映画は日本では全くといって認知されていない映画だといっていいだろう。一通り確認したところ、小さい映画館で上映され、それも上映回数が少なかった。さて、有神論と無神論の議論は長きにわたり交わされてきた。だがやはり無神論を展開した思想を見せたのは古代ギリシアではエピクロスデモクリトス。それに近世でいえば啓蒙主義者のディドロ、ヴォルテール、それにやはりニーチェは欠かせない。現代でいえば、マルクスマリー・キュリーサルトル、ワトソン、ラッセル、ホーキングは勿論のことである。彼らに一貫した立場は無神論ということであったが、ニーチェであればキリスト教道徳批判。サルトル実存主義的、つまりヒューマニズムから、ラッセルやホーキングは科学的な見地によるものであった。単に無神論者だったというわけではなく、その時その時の時代によって彼らの無神論的立場も全く違ったものなのである。哲学講義の中で、ラディソン教授は「神はいない。そんなつまらない議論はこの講義の中でするつもりはない。」という。残念なのが、映画だからだと思うが、このラディソン教授の神の存在否定が講義の中で語られなかったことなのだが、ラストで自身の経験、感情論に結びついてしまったことは非常に残念だった。クリスチャン主人公ジョシュはなんとかして神の存在証明から論じようとするが、私には水かけ論に見えた。なぜなら彼の主張だと(彼の主張というより旧約聖書からも読み取れるのだが)無から有が生まれるのは科学的にもあり得なく、それは創造主たる神がいるからだという。女学生は言う、「それなら、神は誰に造られたの?」ジョシュはこれに「それは無神論者が、宇宙を創造したのは誰かという問いだから議論はつまってしまう、なら答えられない」、は?全然答えになってないんだけど、、、確かに神という一言で片付けられるほど、信頼はおけ、それで理は成立してしまう。だけどそれに根拠は?全く論理性が飛躍し、事実証明がなされていない。正直私は日本人だし、実家は曹洞宗だけど信仰心なんて毛頭ない。それでも客観的にみればこの神の証明はやはり無理だと思う。現代を生きる私達なのだから、事実証明なんてできるはずがない。例えば歴史上のものや偉人は痕跡が残されている点で説明がつき、近年の科学発達もそれである。しかし神という超越的、妄想的、迷信的なものははたして今どれほど説得力をもつだろうか。私は講義中にラディソン教授が述べていた。「私は無神論者だ。だが信仰は自由だ。」これこそが、最もだと考える。結局のところそれは水かけ論にしかならない。有神論者がああ言えば、無神論者はこう言う。人類がキリスト教とともに生きてきた年月が考えれば、まだ絶対的に神の存在を認める者がいるのは当たり前の事ではないかと思う。この映画はとても不評で、ラストの終わり方が非常にキリスト教に偏ってしまうという意外なものになるのだが、私は悪いは思わない。映画はそれが唯一ではないし、映画を根本から考えたら、多様な思想を伝えるためだ。何が悪いのか。私個人の意見だ。だから共感もしないし、悪いとも思わない。共感する人もいて、良くないと思う人もいる。ただそれだけだ。ただ私が思うに、プロパガンダ的なものが映画の中でなされたとしても良く考えて欲しいのだ。例えばこれに感動したとしても、そのような感動とははたしてどこから生じ、なぜそう感じたのか。こう自分に問いかけるべきだ。無神論実存主義サルトルは神などは存在せず、人間は何もわからないいまま選択を絶えずしていき、その責任は人間が負うものであると述べている。神はいつでも助けてくれ、都合の良い時に助けてくれるだろうか?無神論者の私はこの考えに賛同はしている。全てではないが。これは良い、悪いの話ではなく、自分自らがどう考えるかの話なのである。