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思考を巡らせて

人文の大学生が身の回りのことをてきとーに書くブログ

『メタモルフォシス』を読んで

羽田圭介著『メタモルフォシス』を読んだ。軽く物語についてはなすと、主人公証券マンは強烈な性癖を持っている。ドMなのだ。「お前、ドMだなー。」とか気軽に言えるレベルではないのだ。この男のドМさは。多分この本を読み終えた人々はみんな口を揃えて、次のような感想を持つだろう。「こんな奴ホントにこの世にいるのか。」と。要はそれくらいなのだ。主人公は仕事の傍ら、SMプレイ専門の店でエクスタシーに浸る。それはまるで麻薬中毒のように。このSMプレイが最後まで延々と繰り返される話ということが概要なのだが、心理描写が秀逸すぎて、私はSMの話どころではなくなってしまったのだ。さすが芥川賞に複数回ノミネートされ、受賞しノリにノッテいる純文学作家だ。この本は羽田氏が述べるに、芥川賞受賞作『スクラップアンドビルド』よりも苦労して書いたと語っていて、こちらの本の方が評価されていいはずだ。と語っている。申し訳ないのだが『スクラップアンドビルド』は私が読んでいなく、(文庫が出たら確実に買う。節約しているのです。泣)比べるものでもないと思うが、『メタモルフォシス』は純文学の特徴である心理描写を秀逸に捉えているのだ。(二回言ってしまいました。笑)それはSMというキーワードにある。こんなこというと変態とか頭が飛んでいるんでないかと思われるが、私は世の中の人間誰もがSMに分けられる可能性は大いにあり、またSMに成りうる素質を持っていると考えている。人間においてその内なるものが精神学や科学によってなんでも解明できるように思われているが、決してそうではないと思う。確かに精神学や科学は技術進歩により、正確さや答えはゆるぎないものとして君臨しつつある。しかしやはりそれは人間が作ったもの、発見してきたものであって、それは文化だ。知の営みだ。どこまでいっても人間の自然性に近づくことはできないと思う。(人間それ自身が科学だ。といってしまえばおしまいかもしれないが。)だからは私はSかMといったような特定の性質をもつのはなんらおかしいことではないと思うし、誰もがもっていてもおかしくはないと思う。そうした変化はつまり『メタモルフォシス』だろう。話を戻し、物語に沿うとまさにSかMといった性質は問題となる。私の考えから、まだSMに目覚めていない人々にとって、SMといった性質は奇異であるだろう。しかし物語では社会での主人公。S嬢とのプレイを悦びとする主人公(つまりこの次元は社会と断絶した存在)に分けられ、それが一変なものとさせている。しかし主人公にとってMであることを隠しつつ、自分の性質が社会にばれるか、ばれないかの瀬戸際で生きることにさらなるMを感じている。面白すぎる。しかし前半中盤後半は少しづつ度合いがメタモルフォシスしていく。Mの称号にふさわしい。アヌスに日本酒を入れたり、窒息ぎりぎりの体験をしたり、、、、最初の感想の通り、「こんな奴いねーよ」という感想だった。だが話の終盤を読み、私個人の見解から話すと「んんん?なんかわかるかも。いるまではいいすぎだけど、気持ちはわかるかも。」だった。ここでストーリを書いてしまうと面白みがなくなるので書かないが、私のイメージから書くと、それは人間がバンジージャンプをするようなものではないかと思った。死というものはそれに辿り着くともはやその時に死は私には存在しないし、特段恐れるものではない。(誰か哲学者が言っていた。が忘れた。)しかしその過程が痛く、つらいから恐れるんだろう。人間は。でも死のその先、あるいは死に到達したとき一体私はどうなってしまうんだろう。これは憧れでもあり、ある意味願望、欲求でもある。痛さより、つらさより、死への恐れより、ふと、私は共感してしまった。それは人間の限界でもあるのかもしれないが。