思考を巡らせて

人文の大学生が身の回りのことをてきとーに書くブログ

宅配業界の苦境

またもやテレビ特集。今回は今話題になっているネット通販。ではなく、モノを消費者まで届ける宅配業界の問題だ。近年のネットまたはスマホ普及により、モノをその場で買うのではなく、ネットを介して買うといったライフスタイルに変化してきている。それは消費者が便利性というものを追求した結果といえるものであろう。普段買うことのできないモノを買えたり、コンビニでさえ受け取れるようになった。ビジネス視点とすればネットビジネスの展開は今後さらに躍動していくであると考えられるし、人々の生活においてそれが中心になっていくのは現状を見てもわかる。しかし宅配業界はネット通販がそうであるのとは逆に苦境に置かれているようだ。なぜか。最も苦境に追い込んでいるのはネット通販側のボリュームディスカウントにあるだろう。ボリュームディスカウントとはネット通販側が大量の荷物を業者に委託する代わりにその単価を下げてもらうというものである。この話だけだと単価は下がったって量が多いんだからそんなに問題はないでしょ、などと思うかもしれない。しかしここから弊害が波及していく。まず、単純に量が多いことからその日の内に消費者の元へ届けることがとても大変になってしまう。つまり量の多さが個々のドライバーへの重荷となってしまい、元々大変な力仕事であった宅配業者がさらに大変な仕事となってしまう。そしてボリュームディスカウントで単価が低くなってしまったことで、結果的に給料そのものが単純にそれまでより低くなってしまうのである。さらにことは重大化する。再配達問題である。これは私も経験したことがあるので、より身近に感じられる。急に用が入ってしまったので指定時間に家に帰れず、家に帰ると不在宅配の請求票が入っていた。考えもしなかったのだが、誰がこの再配達(つまり再び家に宅配物を届けに来てもらえるということだが)のコストを負っているのか。それは宅配業者自身である。まさかそんなことは考えてもみないことであったのだが、そうなのである。これは宅配業界の引くに引けぬ便利さを追求した問題として捉えられる。便利さを追求しているのは消費者の要望要求で、これにより利益を伸ばしていく考えなのは間違いないのであるが、再配達という問題の多さを予想できたであろうか。いや中々できるものではないだろう。そもそもこの便利追求にはいささか日本はしすぎている印象を受ける。海外をみてみると、アメリカは2~3日程度、ヨーロッパになると1週間程度が商品の予約を受けてから届けるまでの大体の期間だそうだ。そして日本はなんと予約してから1日で配達されるという異例の速さである。これでは日本の人たちが便利さを追求しているよりも、せっかちさを前面に出しているような気がしてならない。かくいう私も1日配達をしたことは何度もある。しかしこのような社会状況、ネット通販の普及が配達会社にこれだけのダメージを与えるとは思わなかった。それが私達のせいでもあるということが。テレビ特集の中で、宅配ドライバーの方は「お客様が悪いわけではない。急に用が入ってしまうこともある。」と述べていた。しかしそうはいっても多分内心身勝手な消費者が多いと感じているのだろうし、会社、社会を怨んでさえいるだろう。激務なわりに自分の懐に入ってくるお金が薄いものになってしまうのだから。こういった利便性の追求というのは近代からの機械化が始まって以降求める度合いが大きくなってしまっているのは確かだが、便利にも丁度の良さというものがあるのではないか。

 何やら中央公論新書の『応仁の乱』がこの出版不況の中20万部を達成したみたいだが、日本史の知識に乏しい私でも興味をそそられた。これは本当にすごいことだ。今度見てみよう。

 

 

 

 

 

 

本、珈琲館、煙草

タイトルの通りだ。今日の私の一日はこれだと思う。証明写真も入ってくるかもしれないが、、、。しかしまぁいつから私はこんな生活を好きになってしまったんだろうか。学生以前の自分といえばヘラヘラと笑い、考えることといえば楽しい事、楽しい事、楽しい事、楽しい事、楽しい事。絵に描いたような馬鹿である。しかも最悪なことに、その7割が人を馬鹿にしていた。今思い出すと、友達と一緒にやっているとなんとなく楽しかったんだと思う。つくづく憐れな人間である。程度の問題とはいえそんなことが二十歳を過ぎてからも続いているのだから、仕方がない。一体何を考えているんだろうか。私はそう考えている内にふと疑問に思う。あれ、なんで人を馬鹿にすることが楽しい事に繋がるんだろう。見下し?嫉妬?それとも本当に面白いのか。少なくとも20年以上生きてきているのに、自分が行っている行為の根っこが分からない。よく日常生活で起こりうることかもしれないが、たぶん私達はそういうことを考えて生きてはいないのだ。でもそうしたら反射的やほとんどそれと近いような感覚でやっているのだろうか。謎だ。本当にそうなのだろうか。ある友人は明確に自分が行った行為に対しその理由を述べていた。しかし彼ががそのように意思したことに複数の意思が内在ないし交叉、混在してしまうということはないのだろうか。私は専門家ではないし、こういった今であるならば科学的な内容を長々と論じるつもりは全くないから、とりあえず謎であるまま終わらせる。

 全くタイトルと違う内容になってしまった。今日も何事もなく、ESに書くための読書をしていた。今日の収穫は新しい喫茶店を見つけたことだ。私がこの町に住み始めてから決まった2、3店舗の喫茶店にしか訪れなかったのだが、今日はなんとなく散策してみた。してみると非常に面白みがあった。なぜならば、その店が自分の家から3分ぐらいの近場であったことだ。しかも普段素通りしている場所でその場所にそんなものがあるとは思わないような、まるで秘密基地だった。その店は地下に潜っていくのだが、中に入り見渡すと、ガラガラの席にカフェのキャパとしてはかなり広い面積、そしてふわふわのソファー、どれも私にとっては新鮮だった。灯台下暗しとはまさにこのことで、なぜ気づかなかったのだろうか。地下に潜るということと、ヴィンテージ内装、とってもいい。弁解しておくと、ミーハーではない(笑)単にそのように私が思っただけなのだ。あ、この私が思うという意思の理由も本当のところわからないのかもしれない(笑)

 

 

 

 

怒涛の日々からプレミアムフライデーさらに隠し事

「疲れた。」家に帰ってからの第一声がこれである。といっても一人暮らしの私は、これは外に放出する声ではなく、内の中の話だ。なぜ疲れたのかというと、また会社説明会だ。二日連続社会人と話をし、しかも会社という全く接点のない場所でだ。(バイトも会社でしていたが、バイトのそれとは違う気がする。)前日、今日と私が行った二つの会社はその業界だけでなく、日本中に名が知れている大企業であった。どちらも午後一時から説明会があったのだが、私が降りた駅付近はリクルートスーツまみれ。一目で私と同じ就活生であるということがわかる。全体的にむっさい感じのメガネ男子と化粧映えしない女子が多かった気がする。私の身長は177センチだが私より背の高い就活生は居らず、少し優越感を感じてしまった。何の優越感だか(笑)説明会が始まってみると早いもので、時間が過ぎるのはとても早い。ふと、隣の女性に話しかけられた。「どこ志望なんですか。」なんだこいつは、ずうずうしいやつにも程があるだろ。私はそう感じながらも、自分の志望を答えた。彼女の返答は簡素なものであったが、同時に今の私には十分に感じた。この女はマナーを知らないのか、それとも単に馬鹿なのか、その後もちょいちょい口を出してくる。二度と関わりたくないという気持ちよりも、その時はそれを通り越してあきれの感情が湧き上がってきていた。会社説明会が終わり駅から帰る途中、説明会で4人掛けの私の右隣に座っていた、メガネちび男が話しかけてきた。なにやらさっきの女についてらしい。なんてことのない話の内容だが、私もその内容に共感できた。どうでもいいような話に思えるけれど、こういったどうでもいいような話が見知らぬこの男と共有できた点では、少なくとも今日の収穫かもしれない。帰りの電車内で、edmに聞き惚れる。1年前ぐらいから聞いているのだが、疲れが吹っ飛ばされる気がしないでもない。電車内の席が埋まっているのか、私の前に老人男性が立って来た。ふと、こんな何気ない場面だが『スクラップ・アンド・ビルド』の中の内容が浮かんだ。私は譲るべきか譲らないべきかずっと悩んでいた。悩んでいる内にもイヤフォンから耳へ、そして体内へedmは反響し、電車は進む。そうしている内に老人男性は私の方を一瞬怨むかのように一瞥し、目的の駅で降りていった。周りの人間たちも一瞬私の方を睨みつけ、それはまるで私を悪人扱いするようだった。なんとなく、目を伏し目がちにして寝たふりをする。目的駅へ降りた私は飲み屋街の人の多さに驚いた。平日の夕方前になぜ飲み屋街が賑わっているのかと。プレミアムフライデーらしかった。しらん。どうでもいい。さて、読書でもしよう。春休みは一日一冊が私の日課だった。さて、今日の本は『隠し事』だ。

 

 

 

 

 

 

 

NHK特集にて

NHKクローズアップ現代にてアメリカの過激思想「オルト・ライト」の特集が放送されていた。アメリカでは過去にもKKK、そしてネオナチと白人至上主義を提唱してきた集団が台頭してきたが、現在は「オルト・ライト」が頭角を現してきているようだ。事実上のリーダー、リチャードスペンサー氏はアメリカメディアのインタビューで「あなたは差別主義者ですか。」との問いに、「もちろん。差別主義者で構わない。」と述べているという。アメリカで過去に白人至上主義が最高潮に達したときには84%の白人が人種の割合を占めていた。しかし近年の専門家の予想では白人と黒人の割合が逆転する現象が起きると予想している。スペンサー氏によると、歴史的に迫害をしてきた白人が、今度は黒人のために自分たちの権利を奪われていると主張する。例えばアファーマティブ・アクションは、本来人間は平等でなければならないのであるが、黒人優遇のために白人が権利、機会を奪われてしまう平等の中の不平等がある。それは黒人がマイノリティーであるために行われてきたことであるが、白人個人にしたら平等とは言えないのだ。そしてこの「オルト・ライト」の中心となる年齢層は極端に若者の白人に偏っているといわれる。例えば、大学入学にアファーマティブ・アクションが利用されて権利を奪われるということになれば、「オルト・ライト」の思想に同調しやすいのであろう。

あとは台頭の要因としてはトランプ氏が大統領就任したことである。彼が就任したことにより、影に隠れていた白人至上主義者達が表に出てきて、思っていたことを表明するきっかけになったのだ。広告党としてトランプ側近のバノン上級顧問は「オルト・ライト」を広めた一人であると言われているし、ミラー大統領補佐官もそうである。ある黒人がテレビインタビューの中で、「もはやアメリカは暴力が蔓延した国家になってしまった。人種差別を無くすことは対話では不可能だ。暴力無しでは。」と述べていた。アメリカは移民国家として人種のるつぼとも言うべき大国家であるだけに、多様性、多種族を尊重し、本当の平等を求めていってもらいたいものだ。そして日本にいる私達も日本の都市で歩いている外国人に異様な目つきで見ていないと言い切れるであろうか。人種差別を肯定するつもりは毛頭ないが、私は知らず知らずの内に差別的な行為を取っていないだろうかと自分の胸に聞き直すきっかけになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

煙草吸いながら、、、

今日も活動してきた。

ちなみに今煙草を吸いながら、最近お気に入りのedmを聞き、ニュース番組を横見にこのブログを書いている。不思議なもので私は一つの事を主としてやろうとする時、同時に複数の事をやろうとする。もちろん頭では複数の事を全部やろうなんて思ってないし、音を同時に聞きとり、煙草を吸いながらキーボードを打ち、PCとTVの画面を両方見るなんて物理的に無理に決まっている。あの有名な厩戸王が豊恥耳といわれたように10人の話を理解し、それぞれに的確な答えを出した逸話は嘘らしく私は感じられる。いや、自分という人間と私の友人との違い、、私の友人が優秀で、私とは特異なことができるといったようにあり得る話なのかもしれない。こんなようなことを、久々に感じる雨に濡れ、死んだ思考でだらだらと考えていた。最近煙草を吸いすぎている気がする。よくないな、と思うものの吸ってしまう。炬燵の上でだらだらしていると頽廃してしまう気がする。しかしedmで復活する。なんだかよくわからない。今日思ったのは、家にいるとダメになる、確実に。まだ、喫茶店で勉強か読書している時の方が有意義である。読書の幅も少しづつ広がっている気がする。昨日は『火花』を挙げたが、鴎外の阿部一族、かのように、雁、を読んだ。あと舞姫再読。かのようには鴎外の初期の思想が込められているとのことで、かのようには独逸語でDie Philosophie des Als OB(ディー・フィロゾフィー・アルス・オップ)という。辿ってみるとそれはHans Vaihinger(ハンス・ファイヒンガー)という人の論文でかのようにの哲学なのだという。詳しくは書かないが、鴎外がかのようにでその具体性を話していて、とても魅力的に感じられた。後のアドラー心理学でとり扱われているらしい。(アドラー心理学はよく知らないが)

『火花』が芥川賞を取ったが、芥川龍之介羅生門しか読んだことがなかったので羅生門を読み直し、鼻、芋粥、蜃気楼を読んだ。蜃気楼は芥川の後期作であり、死の直前に書かれたことを知ったので、よく理解できなかった。というより読む順番を間違えたというべきだろうか。そして岡倉天心の『茶の本』。この本は西洋に対し批判の念を込めて、天心が日本の文化を誇示するものだった。道教禅宗の中国文化の話は申し訳ないが、ピンとこなかった。しかし利休を代表とする茶室のわびさび、花の章では西洋と日本の花の関わり方とても共感できた。

さて、そんな事を話している内に眠くなってきた。炬燵に入っていると、足が暖かいから良くない。それでは、また。

『火花』を読んだ。

寒い寒い2月中旬ですが、夏用のスーツで会社説明会に行きました笑

という前置きはどうでもいいとして、、、えー、、これからは不定期で書いていこうかと思います。そこは深入りしないでください笑

 話は変わって、文春の文芸誌に又吉さんが載っていました。記事を読んでみると、どうやらあの芥川賞『火花』以来の本を出すそうです。私はあの時の芥川賞直木賞作家さんでは羽田さんしか読んでなかったので(今、『流』読んでます。)芸人が書いた文学はどんな文章なんだろうと思いながら、この間、『火花』を読みました。読んでみた結果・・・・・んー笑。イマイチでした。某テレビ番組では確かに羽田さんが言っていたように、描写はすごく上手だと私も感じました。ストーリーもそんなに悪くはない、、、と思う。まあストーリーはその人が何をジャンルとして好きかということだと思うから、一概に良い悪いは言えないんだけどねー。これはあくまでも私の中の話だけで、イマイチだと思ったのは・・・・・全く文章に魅力がなかったってこと。え?何が言いたいのだって?例えば、同じ芥川賞作家の羽田さんも純文学作家だけれど、彼が高校時代に書いた処女作『黒冷水』に全く及ばないと思う。なんていうかな、、、二人とも話自体は平凡なんだけれど文章の展開が又吉さんは読めてしまって、羽田さんは全く読めないんだよね。もちろん羽田さんの方は良い意味で。やっぱり話の展開が読めてしまうと、退屈になってしまうんだよなー。平凡な話の中に展開が読めないってすごく難しい技量だと思うんだけど、特に今回のは見比べてみて思いましたね。羽田さんの『ワタクシワ』も主人公は設定がめちゃくちゃだったけど、結構リアルに感じられたなー。

 さて、『火花』はイマイチということでした。申し訳ないけど、芥川賞の選考基準を教えてほしい。某動画サイトで書評を見たけど、イマイチでした笑

下旬から忙しいけど、春休み入ってから読書ペースが一日一作なんで、またブログあげます。

それじゃー

遅すぎる転換期

新年明けましておめでとうございます。 もう一週間も経っているというのに、、、、
全くブログ更新せずにマイペースに過ごしてましたー
しかも3年のこの忙しい時に、どうしようもないです笑
さて、今まで興味をもってドイツ語、英語、哲学に興味を持ち、勉強してきました。当初は周りの誰からも、そういった思想や語学などで飯を食ってはいけないよと、私が話をする際に常々言われてきました。確かにその通りです。正しいと思います。しかし何にも興味が持てず、ただダラダラと過ごす3年までの学生生活の中で、唯一、哲学という学問に出逢えて非常に嬉しかったです。他の人から見たら、大丈夫かコイツ的な目線で見られていたと思います。笑
しかし、私はある先生から教わった[物事の考え方]を養う、養うとは少し表現が可笑しいかもしれないけれど、知るということが心に残りました。哲学が実社会から離れたものであることは書や講義においてわかっていました。でも特に2年、直近まではそうしたことに対して、どこか心のひっかかりがあったのです。それは本来個人個人が、正しさに縛られず考えていくものであると信じていたからであります。そして楽天的で、能天気、さらには受動的な私はそうした考えること一切がそれまでの私の本性を変えていきました。
それはまるで、暗中において光がさしこんだようでした。まあ、興味だけが先行するばかりでテクストを読む力もなく、結局わずかしか書も読めないですし、ドイツ語も英語も中途半端です。要するに先へ進むためには実力もなく、意志も弱い、いわゆる学問に対しスタートラインにすらたてなかったわけです。しかし刹那的な楽しさを知れて、まだまだこの先知らない世界が待っているんだなぁと思いましたよ。だから後悔しても仕方ないことですね。職に就くためね活動の中で、こういうことを学んでいなかったら、ソッコーメンタルやられていましたよ笑元々後悔を引きずりまくっている今までの人生なので笑
ニーチェが言ってた、元々強い人間と弱い人間の道徳には反発したいけど、今の私には言い返せません笑
でも、この長い、肉体は強いので笑、人生の中でどうにか自分のやりたいように一瞬でもいいからやってみたい気はします。
くそ長くてつまらない人生観笑はそろそろやめて今後の話をしましょうか。まず、ちらっと言ったかもですが、シューカツですね。かなり出遅れてますがww
この年だと、親にももう頼れませんし、親もどこか就職して自立して欲しいと思っているでしょう。
かなりお先真っ暗状態かもしれないですけど、やるしかないでしょ。経験的によく言われてるけれど、やらないよりやったほうがまし。これはその通りだとおもいます。だからといって職に就けなかったら中々大変なんで、出遅れた分、どこかで辛い思いをしなければならないんですが。
そしてこのブログのお話。今まで全く更新していなかったので、特に、というかんじですが、閉鎖ということで。まあ無事就職できたら、また報告しにくるかもですが、多分忘れてるかもしれません笑
最後に今まで一瞬でも私の拙い文章や私の考え、たった2記事ですが、目を通して頂きありがとうございました。