思考を巡らせて

人文の大学生が身の回りのことをてきとーに書くブログ

出版社への道

どうもこんにちは

先日梅雨入りが発表されましたが、東京は中々雨が降らないようで、、、

先日会社選考で群馬に帰りましたが、群馬では梅雨らしくなってきたようです。

東京では雨があまり降らないので、就職活動に影響が出なくて私自身少しホッとしています。6月も中旬ということですが、中々内定がでない状況にあります。今日も2社から面接選考で祈られ、メンタル的にもなかなか厳しいものがあります。同期もほとんど就活が終わっているようで、羨ましいような、そうでもないような、、、

やっぱり出版社は選考フローが長く、採用人数が若干の上に人気業界であって厳しいですね。大手から中小まで受けさせて頂きましたが、今までのところ全敗です。私自身マスコミ系中心に就職活動してきましたが、約半分は書類選考落ちというのが事実です。一喜一憂の毎日でしたが、日を追うごとにそういった感情よりも、後退的な気分のまま選考に進むということが多くなりました。

現状、卒論と就活どちらも上手くいってませんし、確かにこのままだとまずいという気持ちは十分私も感じています。結果がでないストレスをなるべく感じさせないよう、強い意志を持って就活には取り組んでいるつもりでした。私の身体は正直で、私の手足には厖大な発疹ができるということもありました。

群馬に帰った時、すでに働いている友人と共に就活をしている友人と話す機会がありました。その厳しい私の現状を伝えると、友人の一人は「戦う目を失ったら負けるぞ」と私に告げました。その時、私はお前に何がわかるんだと内心思っていましたが、その言葉を反芻してみると確かにその通りで、彼も高い壁を見つめ、また挑戦しているのだと考えると自分も負けていられないと思いました。

こういった束の間の休息は英気を養うこととなりましたが、依然として私の未来は厳しいものとなっているのは事実です。しかしその事実とどのように向き合っていくか、またそれを受け入れ、何を私が考えるか。就職をするにあたって、普段以上に学ぶことが多かったと感じています。

戦う目を失ったら負ける。就活が戦いの場というわけではありませんが、この残酷かつ現実をありありと突き付けた友人の言葉は、今も私の胸の中で、静かにその牙を光らせています。

 

それでは

 

 

 

緊張はしない

一昨日、今日、明日と出版社の筆記試験が続いている。

今日の某大手S社なんて、昨年の内定者はたった3人。そこに1000人以上の新卒

の学生が書類を通過し、筆記に挑んでいるらしい。無能な私は意外にも冷静にその情報を飲みこむ。そこには諦めと挑戦が複雑に混ざりあっている。今時斜陽産業である出版は中小でさえも、枠が少ない。先日、とあることから、ある出版社に面接にいった。知り合いの大学教授が仲介してくれたのだが、まあ厳しく質問されたわけだ。それだけやはり、出版業界は厳しいということだろうか。知り合いの大手出版社で働く友達に聞いてもやはり同じ反応だった。私の考えはすでにきまってはいるが、、、

さて、明日は最も行きたいK社の筆記試験。正直、1パーセントの確率に私が入れるかと思うと、普通自信を持ってYESといえないだろう。しかしESは半分強しか通過していないのだから、私もある程度は評価されているのだろう。そして特にこの会社の出版物は、幼少期から慣れ親しんでいる多くの本がある。

今日のS社試験前の、周りの付け焼刃の試験対策にひどく嫌悪感を感じたが、やるしかないだろう。もがいてみよう。

GD

大型連休です。少しまったりできているかも。

ブックオフに行ったら、なんと書籍20%オフ!!ということで、これは買うっきゃない

と思い、9冊買ってしまった。最近は江戸川乱歩にはまっているかも。あとずっと目をつけてた小説を買い込みました。まあ、光文社で頂いたクリアファイルからピンときて買ったものもあるんですけど、、、買ったのが以下

 

シェイクスピア十二夜

ヘッセ『車輪の下

トゥルゲーネフ『初恋』

江戸川乱歩『パノラマ島綺譚』

芥川龍之介地獄変

芥川龍之介『蜘蛛の糸、杜子春

福沢諭吉学問のすすめ

谷崎潤一郎『春琴抄』

谷崎潤一郎『陰ぎん礼賛』

 

短編集が多いのにお気づきかもしれませんが、如何せん時間がないので、しゃーなしです。多分、ヘッセと諭吉は後回しになりますね。有名処ばかりですが、楽しみですね。

卒論も読まないとなので、今月は勝負所かな。

 

それじゃまた

 

ただいま思考停止前

 お久しぶりです。絶賛就活に苦しんでいます。

このごろ毎日ESを書かないと間に合わない毎日です。

せっかく恩田さんの本買ったのに全く読めない、、、

しかも卒論も4月中に概要掴んどかなきゃなのに、そんな気にならない。

つーか小学生の時にNHKで見ていた、「六番目の小夜子」恩田さんの処女作だったのか。。。。。今頃気づくなんて。そしてドラマ編、栗山千明は小夜子役で出てたけど、山田孝之も出てたのか。。。しかも秋役で。なんというか、小説いま少し読んでるけど、似合っている感じする。

六番目の小夜子』って新潮社のファンタジーノベル賞で最終選考まで残っていたらしい。さすがだね。正直、選ばれてもいいぐらいの作品だと思うけどね。

そんな今日も、久々にブログ書きながらEDM系、capsule with 中田ヤスタカ

そして今年のロッテ。

弱すぎじゃね???? 打線湿りすぎだろ。大地以外打てないじゃん。その大地も湿ってきてるけど、、、、 デスパイネ返せよソフバンさんよー。就活終わったら友人と行く約束してるから、楽しみだな。

はぁー 煙草吸いすぎ&エナジードリンク飲みすぎないように気を付けましょう。

 

それじゃあまた

ラーメン二郎食った

11時に起き、午前はだらだらとPCをいじりながらニュースを聞いていた。それから17時までESを書き続け、さっきスーツ出しがてら久々二郎食べてきた。さすがに昼から夕方まで何も食べず、珈琲とブルガリアのむヨーグルトはきつすぎた、、、つーかスーツ上とツーパンツ、ワイシャツ×3で1820円て、、、、高すぎやろっっっっっ。こんなんじゃ金なくなんよ。電車賃だけでくそ高いのに。そんでもって夕飯にすきっ腹二郎。桜台の二郎はうまい。まじでうまい。しかし今日はすきっ腹だったのでヤサイ断念。代わりにカラメでスープ飲み干してきた(笑)絶対体壊すだろこれ。今週夕飯全部牛丼だったぞ。ふざけすぎだろ(笑)つーか二郎でキャバ嬢的なおねーさんがいるの初めてみたわ。香水くさすぎて吐きそうになったよ、、、

 そんでもってWBCも今日はないので、ESまた書くかな。Red Bullとタバコの組み合わせばっかだな最近。よくないわ それじゃ

一体何を学んできたのだろうか

人生は後悔の連続だ。つくづく思う。何から生ずるか。それは他人との比較、社会への適応、理想への想い、様々である。時間が足りない。時間さえあれば、ことが解決する。しかしそれは本当か。いやわからない。それともいわゆる努力だろうか。いやそれでも後悔が生ずる。カントが述べた人間観は人間は悪の根源である。ホッブズも同様に自然状態の危険性から国家を建設することを述べた。それならば、人間の後悔とは利己的な部分からやってくるのだろうか。大いにありうる。例えば、路上に老婆がいて、その老婆の前から車がアクセル全開で向かってくるとする。自分は路上外の老婆のすぐ近くにいて、自分は老婆を助けられる距離にいる。そして自分以外に老婆を助けられる者はいない。この場合二つの選択肢があると思う。一つは老婆を助ける。二つは老婆を助けず、傍観する。一つ目はもしかしたら老婆を助けても、自分がまきこまれる可能性があるかもしれない。しかし助けるという選択肢をとる。二つ目は自分がまきこまれる可能性に気後れし、助けることができない。または単純に道徳心によらず、助けない。今回の後悔というキーワードから着眼すると、この場合での後悔とは何だろうか。助けた場合、老婆自分共に生存できた場合は何の後悔もないだろう。(老婆が自殺願望があることは除く)しかしどちらか一方が生存できなかった場合は生存た一方は後悔の念を感じるだろう。老婆にしたら、私のせいで若い命が、、自分にしたら、助けられたのに、、、

老婆を助けられなかった場合も同様だ。なぜ、足元がすくんだのだろう、、、道徳心を無視した場合でも全く何も感じないといったことはおおよそないはずだ。この場合の後悔とは一瞬で行った行為、できなかった行為が永遠と自分につきまとい、もはや絶えず自分の人生に付きまとう負い目、後悔となる。ここから結論すると後悔は人間の本性に存するものだと考える。単に利己的なものだけではない。

 しかし私の人生を考えた時、後悔は利己的なものとなりうる。これは私にも共通することだ。よい生き方として他人と比較をせず、自分らしさをもって人生を歩むというようなテーマが人類に掲げられている。しかし本当だろうか。現代ではこのようなテーマを重視し、推進しているように見えるが実際はそうではない。常に他人との比較だ。何か人と違うものを持ち、人と違う行いをせよ。主体的な行動ができない奴は没個性となり、社会で要求される新しい価値を生み出すこと、問題を解決する能力を持たないとみなされる。社会が今求めているのはクリエイティブで安定的な人間だ。そこから目を背けていては、社会からは必要とされない。ならそうなれるか?多分大多数はなれない。そこには諦めとルサンチマンがある。いつしかそういった後悔が利己心に直結し、再び人間はその本性を現前とする。

 今私は迷う。何をしていいか。何をすべきが後悔を生み出さないのか。しかし私は振り返る。今までやってきた後悔の連続に。唯一の輝きが他人の考えを知ることなのは嘲笑ものかもしれない。時間がないとにかく。

God's not dead

2014年アメリカで公開された「God's not dead」という映画を見た。日本語であると「神は死んだのか」つまり直訳の「神は死んでいない」ではな、反語的な意味合である。この映画はアメリカで起こった様々な訴訟事件を基にして作られたもので、その内容とは、クリスチャンの学生が神の存在証明をするため、無神論者の哲学者教授と激論を交わすといったものだ。この映画は日本では全くといって認知されていない映画だといっていいだろう。一通り確認したところ、小さい映画館で上映され、それも上映回数が少なかった。さて、有神論と無神論の議論は長きにわたり交わされてきた。だがやはり無神論を展開した思想を見せたのは古代ギリシアではエピクロスデモクリトス。それに近世でいえば啓蒙主義者のディドロ、ヴォルテール、それにやはりニーチェは欠かせない。現代でいえば、マルクスマリー・キュリーサルトル、ワトソン、ラッセル、ホーキングは勿論のことである。彼らに一貫した立場は無神論ということであったが、ニーチェであればキリスト教道徳批判。サルトル実存主義的、つまりヒューマニズムから、ラッセルやホーキングは科学的な見地によるものであった。単に無神論者だったというわけではなく、その時その時の時代によって彼らの無神論的立場も全く違ったものなのである。哲学講義の中で、ラディソン教授は「神はいない。そんなつまらない議論はこの講義の中でするつもりはない。」という。残念なのが、映画だからだと思うが、このラディソン教授の神の存在否定が講義の中で語られなかったことなのだが、ラストで自身の経験、感情論に結びついてしまったことは非常に残念だった。クリスチャン主人公ジョシュはなんとかして神の存在証明から論じようとするが、私には水かけ論に見えた。なぜなら彼の主張だと(彼の主張というより旧約聖書からも読み取れるのだが)無から有が生まれるのは科学的にもあり得なく、それは創造主たる神がいるからだという。女学生は言う、「それなら、神は誰に造られたの?」ジョシュはこれに「それは無神論者が、宇宙を創造したのは誰かという問いだから議論はつまってしまう、なら答えられない」、は?全然答えになってないんだけど、、、確かに神という一言で片付けられるほど、信頼はおけ、それで理は成立してしまう。だけどそれに根拠は?全く論理性が飛躍し、事実証明がなされていない。正直私は日本人だし、実家は曹洞宗だけど信仰心なんて毛頭ない。それでも客観的にみればこの神の証明はやはり無理だと思う。現代を生きる私達なのだから、事実証明なんてできるはずがない。例えば歴史上のものや偉人は痕跡が残されている点で説明がつき、近年の科学発達もそれである。しかし神という超越的、妄想的、迷信的なものははたして今どれほど説得力をもつだろうか。私は講義中にラディソン教授が述べていた。「私は無神論者だ。だが信仰は自由だ。」これこそが、最もだと考える。結局のところそれは水かけ論にしかならない。有神論者がああ言えば、無神論者はこう言う。人類がキリスト教とともに生きてきた年月が考えれば、まだ絶対的に神の存在を認める者がいるのは当たり前の事ではないかと思う。この映画はとても不評で、ラストの終わり方が非常にキリスト教に偏ってしまうという意外なものになるのだが、私は悪いは思わない。映画はそれが唯一ではないし、映画を根本から考えたら、多様な思想を伝えるためだ。何が悪いのか。私個人の意見だ。だから共感もしないし、悪いとも思わない。共感する人もいて、良くないと思う人もいる。ただそれだけだ。ただ私が思うに、プロパガンダ的なものが映画の中でなされたとしても良く考えて欲しいのだ。例えばこれに感動したとしても、そのような感動とははたしてどこから生じ、なぜそう感じたのか。こう自分に問いかけるべきだ。無神論実存主義サルトルは神などは存在せず、人間は何もわからないいまま選択を絶えずしていき、その責任は人間が負うものであると述べている。神はいつでも助けてくれ、都合の良い時に助けてくれるだろうか?無神論者の私はこの考えに賛同はしている。全てではないが。これは良い、悪いの話ではなく、自分自らがどう考えるかの話なのである。