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思考を巡らせて

人文の大学生が身の回りのことをてきとーに書くブログ

ラーメン二郎食った

11時に起き、午前はだらだらとPCをいじりながらニュースを聞いていた。それから17時までESを書き続け、さっきスーツ出しがてら久々二郎食べてきた。さすがに昼から夕方まで何も食べず、珈琲とブルガリアのむヨーグルトはきつすぎた、、、つーかスーツ上とツーパンツ、ワイシャツ×3で1820円て、、、、高すぎやろっっっっっ。こんなんじゃ金なくなんよ。電車賃だけでくそ高いのに。そんでもって夕飯にすきっ腹二郎。桜台の二郎はうまい。まじでうまい。しかし今日はすきっ腹だったのでヤサイ断念。代わりにカラメでスープ飲み干してきた(笑)絶対体壊すだろこれ。今週夕飯全部牛丼だったぞ。ふざけすぎだろ(笑)つーか二郎でキャバ嬢的なおねーさんがいるの初めてみたわ。香水くさすぎて吐きそうになったよ、、、

 そんでもってWBCも今日はないので、ESまた書くかな。Red Bullとタバコの組み合わせばっかだな最近。よくないわ それじゃ

一体何を学んできたのだろうか

人生は後悔の連続だ。つくづく思う。何から生ずるか。それは他人との比較、社会への適応、理想への想い、様々である。時間が足りない。時間さえあれば、ことが解決する。しかしそれは本当か。いやわからない。それともいわゆる努力だろうか。いやそれでも後悔が生ずる。カントが述べた人間観は人間は悪の根源である。ホッブズも同様に自然状態の危険性から国家を建設することを述べた。それならば、人間の後悔とは利己的な部分からやってくるのだろうか。大いにありうる。例えば、路上に老婆がいて、その老婆の前から車がアクセル全開で向かってくるとする。自分は路上外の老婆のすぐ近くにいて、自分は老婆を助けられる距離にいる。そして自分以外に老婆を助けられる者はいない。この場合二つの選択肢があると思う。一つは老婆を助ける。二つは老婆を助けず、傍観する。一つ目はもしかしたら老婆を助けても、自分がまきこまれる可能性があるかもしれない。しかし助けるという選択肢をとる。二つ目は自分がまきこまれる可能性に気後れし、助けることができない。または単純に道徳心によらず、助けない。今回の後悔というキーワードから着眼すると、この場合での後悔とは何だろうか。助けた場合、老婆自分共に生存できた場合は何の後悔もないだろう。(老婆が自殺願望があることは除く)しかしどちらか一方が生存できなかった場合は生存た一方は後悔の念を感じるだろう。老婆にしたら、私のせいで若い命が、、自分にしたら、助けられたのに、、、

老婆を助けられなかった場合も同様だ。なぜ、足元がすくんだのだろう、、、道徳心を無視した場合でも全く何も感じないといったことはおおよそないはずだ。この場合の後悔とは一瞬で行った行為、できなかった行為が永遠と自分につきまとい、もはや絶えず自分の人生に付きまとう負い目、後悔となる。ここから結論すると後悔は人間の本性に存するものだと考える。単に利己的なものだけではない。

 しかし私の人生を考えた時、後悔は利己的なものとなりうる。これは私にも共通することだ。よい生き方として他人と比較をせず、自分らしさをもって人生を歩むというようなテーマが人類に掲げられている。しかし本当だろうか。現代ではこのようなテーマを重視し、推進しているように見えるが実際はそうではない。常に他人との比較だ。何か人と違うものを持ち、人と違う行いをせよ。主体的な行動ができない奴は没個性となり、社会で要求される新しい価値を生み出すこと、問題を解決する能力を持たないとみなされる。社会が今求めているのはクリエイティブで安定的な人間だ。そこから目を背けていては、社会からは必要とされない。ならそうなれるか?多分大多数はなれない。そこには諦めとルサンチマンがある。いつしかそういった後悔が利己心に直結し、再び人間はその本性を現前とする。

 今私は迷う。何をしていいか。何をすべきが後悔を生み出さないのか。しかし私は振り返る。今までやってきた後悔の連続に。唯一の輝きが他人の考えを知ることなのは嘲笑ものかもしれない。時間がないとにかく。

God's not dead

2014年アメリカで公開された「God's not dead」という映画を見た。日本語であると「神は死んだのか」つまり直訳の「神は死んでいない」ではな、反語的な意味合である。この映画はアメリカで起こった様々な訴訟事件を基にして作られたもので、その内容とは、クリスチャンの学生が神の存在証明をするため、無神論者の哲学者教授と激論を交わすといったものだ。この映画は日本では全くといって認知されていない映画だといっていいだろう。一通り確認したところ、小さい映画館で上映され、それも上映回数が少なかった。さて、有神論と無神論の議論は長きにわたり交わされてきた。だがやはり無神論を展開した思想を見せたのは古代ギリシアではエピクロスデモクリトス。それに近世でいえば啓蒙主義者のディドロ、ヴォルテール、それにやはりニーチェは欠かせない。現代でいえば、マルクスマリー・キュリーサルトル、ワトソン、ラッセル、ホーキングは勿論のことである。彼らに一貫した立場は無神論ということであったが、ニーチェであればキリスト教道徳批判。サルトル実存主義的、つまりヒューマニズムから、ラッセルやホーキングは科学的な見地によるものであった。単に無神論者だったというわけではなく、その時その時の時代によって彼らの無神論的立場も全く違ったものなのである。哲学講義の中で、ラディソン教授は「神はいない。そんなつまらない議論はこの講義の中でするつもりはない。」という。残念なのが、映画だからだと思うが、このラディソン教授の神の存在否定が講義の中で語られなかったことなのだが、ラストで自身の経験、感情論に結びついてしまったことは非常に残念だった。クリスチャン主人公ジョシュはなんとかして神の存在証明から論じようとするが、私には水かけ論に見えた。なぜなら彼の主張だと(彼の主張というより旧約聖書からも読み取れるのだが)無から有が生まれるのは科学的にもあり得なく、それは創造主たる神がいるからだという。女学生は言う、「それなら、神は誰に造られたの?」ジョシュはこれに「それは無神論者が、宇宙を創造したのは誰かという問いだから議論はつまってしまう、なら答えられない」、は?全然答えになってないんだけど、、、確かに神という一言で片付けられるほど、信頼はおけ、それで理は成立してしまう。だけどそれに根拠は?全く論理性が飛躍し、事実証明がなされていない。正直私は日本人だし、実家は曹洞宗だけど信仰心なんて毛頭ない。それでも客観的にみればこの神の証明はやはり無理だと思う。現代を生きる私達なのだから、事実証明なんてできるはずがない。例えば歴史上のものや偉人は痕跡が残されている点で説明がつき、近年の科学発達もそれである。しかし神という超越的、妄想的、迷信的なものははたして今どれほど説得力をもつだろうか。私は講義中にラディソン教授が述べていた。「私は無神論者だ。だが信仰は自由だ。」これこそが、最もだと考える。結局のところそれは水かけ論にしかならない。有神論者がああ言えば、無神論者はこう言う。人類がキリスト教とともに生きてきた年月が考えれば、まだ絶対的に神の存在を認める者がいるのは当たり前の事ではないかと思う。この映画はとても不評で、ラストの終わり方が非常にキリスト教に偏ってしまうという意外なものになるのだが、私は悪いは思わない。映画はそれが唯一ではないし、映画を根本から考えたら、多様な思想を伝えるためだ。何が悪いのか。私個人の意見だ。だから共感もしないし、悪いとも思わない。共感する人もいて、良くないと思う人もいる。ただそれだけだ。ただ私が思うに、プロパガンダ的なものが映画の中でなされたとしても良く考えて欲しいのだ。例えばこれに感動したとしても、そのような感動とははたしてどこから生じ、なぜそう感じたのか。こう自分に問いかけるべきだ。無神論実存主義サルトルは神などは存在せず、人間は何もわからないいまま選択を絶えずしていき、その責任は人間が負うものであると述べている。神はいつでも助けてくれ、都合の良い時に助けてくれるだろうか?無神論者の私はこの考えに賛同はしている。全てではないが。これは良い、悪いの話ではなく、自分自らがどう考えるかの話なのである。

 

 

『メタモルフォシス』を読んで

羽田圭介著『メタモルフォシス』を読んだ。軽く物語についてはなすと、主人公証券マンは強烈な性癖を持っている。ドMなのだ。「お前、ドMだなー。」とか気軽に言えるレベルではないのだ。この男のドМさは。多分この本を読み終えた人々はみんな口を揃えて、次のような感想を持つだろう。「こんな奴ホントにこの世にいるのか。」と。要はそれくらいなのだ。主人公は仕事の傍ら、SMプレイ専門の店でエクスタシーに浸る。それはまるで麻薬中毒のように。このSMプレイが最後まで延々と繰り返される話ということが概要なのだが、心理描写が秀逸すぎて、私はSMの話どころではなくなってしまったのだ。さすが芥川賞に複数回ノミネートされ、受賞しノリにノッテいる純文学作家だ。この本は羽田氏が述べるに、芥川賞受賞作『スクラップアンドビルド』よりも苦労して書いたと語っていて、こちらの本の方が評価されていいはずだ。と語っている。申し訳ないのだが『スクラップアンドビルド』は私が読んでいなく、(文庫が出たら確実に買う。節約しているのです。泣)比べるものでもないと思うが、『メタモルフォシス』は純文学の特徴である心理描写を秀逸に捉えているのだ。(二回言ってしまいました。笑)それはSMというキーワードにある。こんなこというと変態とか頭が飛んでいるんでないかと思われるが、私は世の中の人間誰もがSMに分けられる可能性は大いにあり、またSMに成りうる素質を持っていると考えている。人間においてその内なるものが精神学や科学によってなんでも解明できるように思われているが、決してそうではないと思う。確かに精神学や科学は技術進歩により、正確さや答えはゆるぎないものとして君臨しつつある。しかしやはりそれは人間が作ったもの、発見してきたものであって、それは文化だ。知の営みだ。どこまでいっても人間の自然性に近づくことはできないと思う。(人間それ自身が科学だ。といってしまえばおしまいかもしれないが。)だからは私はSかMといったような特定の性質をもつのはなんらおかしいことではないと思うし、誰もがもっていてもおかしくはないと思う。そうした変化はつまり『メタモルフォシス』だろう。話を戻し、物語に沿うとまさにSかMといった性質は問題となる。私の考えから、まだSMに目覚めていない人々にとって、SMといった性質は奇異であるだろう。しかし物語では社会での主人公。S嬢とのプレイを悦びとする主人公(つまりこの次元は社会と断絶した存在)に分けられ、それが一変なものとさせている。しかし主人公にとってMであることを隠しつつ、自分の性質が社会にばれるか、ばれないかの瀬戸際で生きることにさらなるMを感じている。面白すぎる。しかし前半中盤後半は少しづつ度合いがメタモルフォシスしていく。Mの称号にふさわしい。アヌスに日本酒を入れたり、窒息ぎりぎりの体験をしたり、、、、最初の感想の通り、「こんな奴いねーよ」という感想だった。だが話の終盤を読み、私個人の見解から話すと「んんん?なんかわかるかも。いるまではいいすぎだけど、気持ちはわかるかも。」だった。ここでストーリを書いてしまうと面白みがなくなるので書かないが、私のイメージから書くと、それは人間がバンジージャンプをするようなものではないかと思った。死というものはそれに辿り着くともはやその時に死は私には存在しないし、特段恐れるものではない。(誰か哲学者が言っていた。が忘れた。)しかしその過程が痛く、つらいから恐れるんだろう。人間は。でも死のその先、あるいは死に到達したとき一体私はどうなってしまうんだろう。これは憧れでもあり、ある意味願望、欲求でもある。痛さより、つらさより、死への恐れより、ふと、私は共感してしまった。それは人間の限界でもあるのかもしれないが。

 

宅配業界の苦境

またもやテレビ特集。今回は今話題になっているネット通販。ではなく、モノを消費者まで届ける宅配業界の問題だ。近年のネットまたはスマホ普及により、モノをその場で買うのではなく、ネットを介して買うといったライフスタイルに変化してきている。それは消費者が便利性というものを追求した結果といえるものであろう。普段買うことのできないモノを買えたり、コンビニでさえ受け取れるようになった。ビジネス視点とすればネットビジネスの展開は今後さらに躍動していくであると考えられるし、人々の生活においてそれが中心になっていくのは現状を見てもわかる。しかし宅配業界はネット通販がそうであるのとは逆に苦境に置かれているようだ。なぜか。最も苦境に追い込んでいるのはネット通販側のボリュームディスカウントにあるだろう。ボリュームディスカウントとはネット通販側が大量の荷物を業者に委託する代わりにその単価を下げてもらうというものである。この話だけだと単価は下がったって量が多いんだからそんなに問題はないでしょ、などと思うかもしれない。しかしここから弊害が波及していく。まず、単純に量が多いことからその日の内に消費者の元へ届けることがとても大変になってしまう。つまり量の多さが個々のドライバーへの重荷となってしまい、元々大変な力仕事であった宅配業者がさらに大変な仕事となってしまう。そしてボリュームディスカウントで単価が低くなってしまったことで、結果的に給料そのものが単純にそれまでより低くなってしまうのである。さらにことは重大化する。再配達問題である。これは私も経験したことがあるので、より身近に感じられる。急に用が入ってしまったので指定時間に家に帰れず、家に帰ると不在宅配の請求票が入っていた。考えもしなかったのだが、誰がこの再配達(つまり再び家に宅配物を届けに来てもらえるということだが)のコストを負っているのか。それは宅配業者自身である。まさかそんなことは考えてもみないことであったのだが、そうなのである。これは宅配業界の引くに引けぬ便利さを追求した問題として捉えられる。便利さを追求しているのは消費者の要望要求で、これにより利益を伸ばしていく考えなのは間違いないのであるが、再配達という問題の多さを予想できたであろうか。いや中々できるものではないだろう。そもそもこの便利追求にはいささか日本はしすぎている印象を受ける。海外をみてみると、アメリカは2~3日程度、ヨーロッパになると1週間程度が商品の予約を受けてから届けるまでの大体の期間だそうだ。そして日本はなんと予約してから1日で配達されるという異例の速さである。これでは日本の人たちが便利さを追求しているよりも、せっかちさを前面に出しているような気がしてならない。かくいう私も1日配達をしたことは何度もある。しかしこのような社会状況、ネット通販の普及が配達会社にこれだけのダメージを与えるとは思わなかった。それが私達のせいでもあるということが。テレビ特集の中で、宅配ドライバーの方は「お客様が悪いわけではない。急に用が入ってしまうこともある。」と述べていた。しかしそうはいっても多分内心身勝手な消費者が多いと感じているのだろうし、会社、社会を怨んでさえいるだろう。激務なわりに自分の懐に入ってくるお金が薄いものになってしまうのだから。こういった利便性の追求というのは近代からの機械化が始まって以降求める度合いが大きくなってしまっているのは確かだが、便利にも丁度の良さというものがあるのではないか。

 何やら中央公論新書の『応仁の乱』がこの出版不況の中20万部を達成したみたいだが、日本史の知識に乏しい私でも興味をそそられた。これは本当にすごいことだ。今度見てみよう。

 

 

 

 

 

 

本、珈琲館、煙草

タイトルの通りだ。今日の私の一日はこれだと思う。証明写真も入ってくるかもしれないが、、、。しかしまぁいつから私はこんな生活を好きになってしまったんだろうか。学生以前の自分といえばヘラヘラと笑い、考えることといえば楽しい事、楽しい事、楽しい事、楽しい事、楽しい事。絵に描いたような馬鹿である。しかも最悪なことに、その7割が人を馬鹿にしていた。今思い出すと、友達と一緒にやっているとなんとなく楽しかったんだと思う。つくづく憐れな人間である。程度の問題とはいえそんなことが二十歳を過ぎてからも続いているのだから、仕方がない。一体何を考えているんだろうか。私はそう考えている内にふと疑問に思う。あれ、なんで人を馬鹿にすることが楽しい事に繋がるんだろう。見下し?嫉妬?それとも本当に面白いのか。少なくとも20年以上生きてきているのに、自分が行っている行為の根っこが分からない。よく日常生活で起こりうることかもしれないが、たぶん私達はそういうことを考えて生きてはいないのだ。でもそうしたら反射的やほとんどそれと近いような感覚でやっているのだろうか。謎だ。本当にそうなのだろうか。ある友人は明確に自分が行った行為に対しその理由を述べていた。しかし彼ががそのように意思したことに複数の意思が内在ないし交叉、混在してしまうということはないのだろうか。私は専門家ではないし、こういった今であるならば科学的な内容を長々と論じるつもりは全くないから、とりあえず謎であるまま終わらせる。

 全くタイトルと違う内容になってしまった。今日も何事もなく、ESに書くための読書をしていた。今日の収穫は新しい喫茶店を見つけたことだ。私がこの町に住み始めてから決まった2、3店舗の喫茶店にしか訪れなかったのだが、今日はなんとなく散策してみた。してみると非常に面白みがあった。なぜならば、その店が自分の家から3分ぐらいの近場であったことだ。しかも普段素通りしている場所でその場所にそんなものがあるとは思わないような、まるで秘密基地だった。その店は地下に潜っていくのだが、中に入り見渡すと、ガラガラの席にカフェのキャパとしてはかなり広い面積、そしてふわふわのソファー、どれも私にとっては新鮮だった。灯台下暗しとはまさにこのことで、なぜ気づかなかったのだろうか。地下に潜るということと、ヴィンテージ内装、とってもいい。弁解しておくと、ミーハーではない(笑)単にそのように私が思っただけなのだ。あ、この私が思うという意思の理由も本当のところわからないのかもしれない(笑)

 

 

 

 

怒涛の日々からプレミアムフライデーさらに隠し事

「疲れた。」家に帰ってからの第一声がこれである。といっても一人暮らしの私は、これは外に放出する声ではなく、内の中の話だ。なぜ疲れたのかというと、また会社説明会だ。二日連続社会人と話をし、しかも会社という全く接点のない場所でだ。(バイトも会社でしていたが、バイトのそれとは違う気がする。)前日、今日と私が行った二つの会社はその業界だけでなく、日本中に名が知れている大企業であった。どちらも午後一時から説明会があったのだが、私が降りた駅付近はリクルートスーツまみれ。一目で私と同じ就活生であるということがわかる。全体的にむっさい感じのメガネ男子と化粧映えしない女子が多かった気がする。私の身長は177センチだが私より背の高い就活生は居らず、少し優越感を感じてしまった。何の優越感だか(笑)説明会が始まってみると早いもので、時間が過ぎるのはとても早い。ふと、隣の女性に話しかけられた。「どこ志望なんですか。」なんだこいつは、ずうずうしいやつにも程があるだろ。私はそう感じながらも、自分の志望を答えた。彼女の返答は簡素なものであったが、同時に今の私には十分に感じた。この女はマナーを知らないのか、それとも単に馬鹿なのか、その後もちょいちょい口を出してくる。二度と関わりたくないという気持ちよりも、その時はそれを通り越してあきれの感情が湧き上がってきていた。会社説明会が終わり駅から帰る途中、説明会で4人掛けの私の右隣に座っていた、メガネちび男が話しかけてきた。なにやらさっきの女についてらしい。なんてことのない話の内容だが、私もその内容に共感できた。どうでもいいような話に思えるけれど、こういったどうでもいいような話が見知らぬこの男と共有できた点では、少なくとも今日の収穫かもしれない。帰りの電車内で、edmに聞き惚れる。1年前ぐらいから聞いているのだが、疲れが吹っ飛ばされる気がしないでもない。電車内の席が埋まっているのか、私の前に老人男性が立って来た。ふと、こんな何気ない場面だが『スクラップ・アンド・ビルド』の中の内容が浮かんだ。私は譲るべきか譲らないべきかずっと悩んでいた。悩んでいる内にもイヤフォンから耳へ、そして体内へedmは反響し、電車は進む。そうしている内に老人男性は私の方を一瞬怨むかのように一瞥し、目的の駅で降りていった。周りの人間たちも一瞬私の方を睨みつけ、それはまるで私を悪人扱いするようだった。なんとなく、目を伏し目がちにして寝たふりをする。目的駅へ降りた私は飲み屋街の人の多さに驚いた。平日の夕方前になぜ飲み屋街が賑わっているのかと。プレミアムフライデーらしかった。しらん。どうでもいい。さて、読書でもしよう。春休みは一日一冊が私の日課だった。さて、今日の本は『隠し事』だ。