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思考を巡らせて

人文の大学生が身の回りのことをてきとーに書くブログ

緊張はしない

一昨日、今日、明日と出版社の筆記試験が続いている。

今日の某大手S社なんて、昨年の内定者はたった3人。そこに1000人以上の新卒

の学生が書類を通過し、筆記に挑んでいるらしい。無能な私は意外にも冷静にその情報を飲みこむ。そこには諦めと挑戦が複雑に混ざりあっている。今時斜陽産業である出版は中小でさえも、枠が少ない。先日、とあることから、ある出版社に面接にいった。知り合いの大学教授が仲介してくれたのだが、まあ厳しく質問されたわけだ。それだけやはり、出版業界は厳しいということだろうか。知り合いの大手出版社で働く友達に聞いてもやはり同じ反応だった。私の考えはすでにきまってはいるが、、、

さて、明日は最も行きたいK社の筆記試験。正直、1パーセントの確率に私が入れるかと思うと、普通自信を持ってYESといえないだろう。しかしESは半分強しか通過していないのだから、私もある程度は評価されているのだろう。そして特にこの会社の出版物は、幼少期から慣れ親しんでいる多くの本がある。

今日のS社試験前の、周りの付け焼刃の試験対策にひどく嫌悪感を感じたが、やるしかないだろう。もがいてみよう。

GD

大型連休です。少しまったりできているかも。

ブックオフに行ったら、なんと書籍20%オフ!!ということで、これは買うっきゃない

と思い、9冊買ってしまった。最近は江戸川乱歩にはまっているかも。あとずっと目をつけてた小説を買い込みました。まあ、光文社で頂いたクリアファイルからピンときて買ったものもあるんですけど、、、買ったのが以下

 

シェイクスピア十二夜

ヘッセ『車輪の下

トゥルゲーネフ『初恋』

江戸川乱歩『パノラマ島綺譚』

芥川龍之介地獄変

芥川龍之介『蜘蛛の糸、杜子春

福沢諭吉学問のすすめ

谷崎潤一郎『春琴抄』

谷崎潤一郎『陰ぎん礼賛』

 

短編集が多いのにお気づきかもしれませんが、如何せん時間がないので、しゃーなしです。多分、ヘッセと諭吉は後回しになりますね。有名処ばかりですが、楽しみですね。

卒論も読まないとなので、今月は勝負所かな。

 

それじゃまた

 

ただいま思考停止前

 お久しぶりです。絶賛就活に苦しんでいます。

このごろ毎日ESを書かないと間に合わない毎日です。

せっかく恩田さんの本買ったのに全く読めない、、、

しかも卒論も4月中に概要掴んどかなきゃなのに、そんな気にならない。

つーか小学生の時にNHKで見ていた、「六番目の小夜子」恩田さんの処女作だったのか。。。。。今頃気づくなんて。そしてドラマ編、栗山千明は小夜子役で出てたけど、山田孝之も出てたのか。。。しかも秋役で。なんというか、小説いま少し読んでるけど、似合っている感じする。

六番目の小夜子』って新潮社のファンタジーノベル賞で最終選考まで残っていたらしい。さすがだね。正直、選ばれてもいいぐらいの作品だと思うけどね。

そんな今日も、久々にブログ書きながらEDM系、capsule with 中田ヤスタカ

そして今年のロッテ。

弱すぎじゃね???? 打線湿りすぎだろ。大地以外打てないじゃん。その大地も湿ってきてるけど、、、、 デスパイネ返せよソフバンさんよー。就活終わったら友人と行く約束してるから、楽しみだな。

はぁー 煙草吸いすぎ&エナジードリンク飲みすぎないように気を付けましょう。

 

それじゃあまた

ラーメン二郎食った

11時に起き、午前はだらだらとPCをいじりながらニュースを聞いていた。それから17時までESを書き続け、さっきスーツ出しがてら久々二郎食べてきた。さすがに昼から夕方まで何も食べず、珈琲とブルガリアのむヨーグルトはきつすぎた、、、つーかスーツ上とツーパンツ、ワイシャツ×3で1820円て、、、、高すぎやろっっっっっ。こんなんじゃ金なくなんよ。電車賃だけでくそ高いのに。そんでもって夕飯にすきっ腹二郎。桜台の二郎はうまい。まじでうまい。しかし今日はすきっ腹だったのでヤサイ断念。代わりにカラメでスープ飲み干してきた(笑)絶対体壊すだろこれ。今週夕飯全部牛丼だったぞ。ふざけすぎだろ(笑)つーか二郎でキャバ嬢的なおねーさんがいるの初めてみたわ。香水くさすぎて吐きそうになったよ、、、

 そんでもってWBCも今日はないので、ESまた書くかな。Red Bullとタバコの組み合わせばっかだな最近。よくないわ それじゃ

一体何を学んできたのだろうか

人生は後悔の連続だ。つくづく思う。何から生ずるか。それは他人との比較、社会への適応、理想への想い、様々である。時間が足りない。時間さえあれば、ことが解決する。しかしそれは本当か。いやわからない。それともいわゆる努力だろうか。いやそれでも後悔が生ずる。カントが述べた人間観は人間は悪の根源である。ホッブズも同様に自然状態の危険性から国家を建設することを述べた。それならば、人間の後悔とは利己的な部分からやってくるのだろうか。大いにありうる。例えば、路上に老婆がいて、その老婆の前から車がアクセル全開で向かってくるとする。自分は路上外の老婆のすぐ近くにいて、自分は老婆を助けられる距離にいる。そして自分以外に老婆を助けられる者はいない。この場合二つの選択肢があると思う。一つは老婆を助ける。二つは老婆を助けず、傍観する。一つ目はもしかしたら老婆を助けても、自分がまきこまれる可能性があるかもしれない。しかし助けるという選択肢をとる。二つ目は自分がまきこまれる可能性に気後れし、助けることができない。または単純に道徳心によらず、助けない。今回の後悔というキーワードから着眼すると、この場合での後悔とは何だろうか。助けた場合、老婆自分共に生存できた場合は何の後悔もないだろう。(老婆が自殺願望があることは除く)しかしどちらか一方が生存できなかった場合は生存た一方は後悔の念を感じるだろう。老婆にしたら、私のせいで若い命が、、自分にしたら、助けられたのに、、、

老婆を助けられなかった場合も同様だ。なぜ、足元がすくんだのだろう、、、道徳心を無視した場合でも全く何も感じないといったことはおおよそないはずだ。この場合の後悔とは一瞬で行った行為、できなかった行為が永遠と自分につきまとい、もはや絶えず自分の人生に付きまとう負い目、後悔となる。ここから結論すると後悔は人間の本性に存するものだと考える。単に利己的なものだけではない。

 しかし私の人生を考えた時、後悔は利己的なものとなりうる。これは私にも共通することだ。よい生き方として他人と比較をせず、自分らしさをもって人生を歩むというようなテーマが人類に掲げられている。しかし本当だろうか。現代ではこのようなテーマを重視し、推進しているように見えるが実際はそうではない。常に他人との比較だ。何か人と違うものを持ち、人と違う行いをせよ。主体的な行動ができない奴は没個性となり、社会で要求される新しい価値を生み出すこと、問題を解決する能力を持たないとみなされる。社会が今求めているのはクリエイティブで安定的な人間だ。そこから目を背けていては、社会からは必要とされない。ならそうなれるか?多分大多数はなれない。そこには諦めとルサンチマンがある。いつしかそういった後悔が利己心に直結し、再び人間はその本性を現前とする。

 今私は迷う。何をしていいか。何をすべきが後悔を生み出さないのか。しかし私は振り返る。今までやってきた後悔の連続に。唯一の輝きが他人の考えを知ることなのは嘲笑ものかもしれない。時間がないとにかく。

God's not dead

2014年アメリカで公開された「God's not dead」という映画を見た。日本語であると「神は死んだのか」つまり直訳の「神は死んでいない」ではな、反語的な意味合である。この映画はアメリカで起こった様々な訴訟事件を基にして作られたもので、その内容とは、クリスチャンの学生が神の存在証明をするため、無神論者の哲学者教授と激論を交わすといったものだ。この映画は日本では全くといって認知されていない映画だといっていいだろう。一通り確認したところ、小さい映画館で上映され、それも上映回数が少なかった。さて、有神論と無神論の議論は長きにわたり交わされてきた。だがやはり無神論を展開した思想を見せたのは古代ギリシアではエピクロスデモクリトス。それに近世でいえば啓蒙主義者のディドロ、ヴォルテール、それにやはりニーチェは欠かせない。現代でいえば、マルクスマリー・キュリーサルトル、ワトソン、ラッセル、ホーキングは勿論のことである。彼らに一貫した立場は無神論ということであったが、ニーチェであればキリスト教道徳批判。サルトル実存主義的、つまりヒューマニズムから、ラッセルやホーキングは科学的な見地によるものであった。単に無神論者だったというわけではなく、その時その時の時代によって彼らの無神論的立場も全く違ったものなのである。哲学講義の中で、ラディソン教授は「神はいない。そんなつまらない議論はこの講義の中でするつもりはない。」という。残念なのが、映画だからだと思うが、このラディソン教授の神の存在否定が講義の中で語られなかったことなのだが、ラストで自身の経験、感情論に結びついてしまったことは非常に残念だった。クリスチャン主人公ジョシュはなんとかして神の存在証明から論じようとするが、私には水かけ論に見えた。なぜなら彼の主張だと(彼の主張というより旧約聖書からも読み取れるのだが)無から有が生まれるのは科学的にもあり得なく、それは創造主たる神がいるからだという。女学生は言う、「それなら、神は誰に造られたの?」ジョシュはこれに「それは無神論者が、宇宙を創造したのは誰かという問いだから議論はつまってしまう、なら答えられない」、は?全然答えになってないんだけど、、、確かに神という一言で片付けられるほど、信頼はおけ、それで理は成立してしまう。だけどそれに根拠は?全く論理性が飛躍し、事実証明がなされていない。正直私は日本人だし、実家は曹洞宗だけど信仰心なんて毛頭ない。それでも客観的にみればこの神の証明はやはり無理だと思う。現代を生きる私達なのだから、事実証明なんてできるはずがない。例えば歴史上のものや偉人は痕跡が残されている点で説明がつき、近年の科学発達もそれである。しかし神という超越的、妄想的、迷信的なものははたして今どれほど説得力をもつだろうか。私は講義中にラディソン教授が述べていた。「私は無神論者だ。だが信仰は自由だ。」これこそが、最もだと考える。結局のところそれは水かけ論にしかならない。有神論者がああ言えば、無神論者はこう言う。人類がキリスト教とともに生きてきた年月が考えれば、まだ絶対的に神の存在を認める者がいるのは当たり前の事ではないかと思う。この映画はとても不評で、ラストの終わり方が非常にキリスト教に偏ってしまうという意外なものになるのだが、私は悪いは思わない。映画はそれが唯一ではないし、映画を根本から考えたら、多様な思想を伝えるためだ。何が悪いのか。私個人の意見だ。だから共感もしないし、悪いとも思わない。共感する人もいて、良くないと思う人もいる。ただそれだけだ。ただ私が思うに、プロパガンダ的なものが映画の中でなされたとしても良く考えて欲しいのだ。例えばこれに感動したとしても、そのような感動とははたしてどこから生じ、なぜそう感じたのか。こう自分に問いかけるべきだ。無神論実存主義サルトルは神などは存在せず、人間は何もわからないいまま選択を絶えずしていき、その責任は人間が負うものであると述べている。神はいつでも助けてくれ、都合の良い時に助けてくれるだろうか?無神論者の私はこの考えに賛同はしている。全てではないが。これは良い、悪いの話ではなく、自分自らがどう考えるかの話なのである。

 

 

『メタモルフォシス』を読んで

羽田圭介著『メタモルフォシス』を読んだ。軽く物語についてはなすと、主人公証券マンは強烈な性癖を持っている。ドMなのだ。「お前、ドMだなー。」とか気軽に言えるレベルではないのだ。この男のドМさは。多分この本を読み終えた人々はみんな口を揃えて、次のような感想を持つだろう。「こんな奴ホントにこの世にいるのか。」と。要はそれくらいなのだ。主人公は仕事の傍ら、SMプレイ専門の店でエクスタシーに浸る。それはまるで麻薬中毒のように。このSMプレイが最後まで延々と繰り返される話ということが概要なのだが、心理描写が秀逸すぎて、私はSMの話どころではなくなってしまったのだ。さすが芥川賞に複数回ノミネートされ、受賞しノリにノッテいる純文学作家だ。この本は羽田氏が述べるに、芥川賞受賞作『スクラップアンドビルド』よりも苦労して書いたと語っていて、こちらの本の方が評価されていいはずだ。と語っている。申し訳ないのだが『スクラップアンドビルド』は私が読んでいなく、(文庫が出たら確実に買う。節約しているのです。泣)比べるものでもないと思うが、『メタモルフォシス』は純文学の特徴である心理描写を秀逸に捉えているのだ。(二回言ってしまいました。笑)それはSMというキーワードにある。こんなこというと変態とか頭が飛んでいるんでないかと思われるが、私は世の中の人間誰もがSMに分けられる可能性は大いにあり、またSMに成りうる素質を持っていると考えている。人間においてその内なるものが精神学や科学によってなんでも解明できるように思われているが、決してそうではないと思う。確かに精神学や科学は技術進歩により、正確さや答えはゆるぎないものとして君臨しつつある。しかしやはりそれは人間が作ったもの、発見してきたものであって、それは文化だ。知の営みだ。どこまでいっても人間の自然性に近づくことはできないと思う。(人間それ自身が科学だ。といってしまえばおしまいかもしれないが。)だからは私はSかMといったような特定の性質をもつのはなんらおかしいことではないと思うし、誰もがもっていてもおかしくはないと思う。そうした変化はつまり『メタモルフォシス』だろう。話を戻し、物語に沿うとまさにSかMといった性質は問題となる。私の考えから、まだSMに目覚めていない人々にとって、SMといった性質は奇異であるだろう。しかし物語では社会での主人公。S嬢とのプレイを悦びとする主人公(つまりこの次元は社会と断絶した存在)に分けられ、それが一変なものとさせている。しかし主人公にとってMであることを隠しつつ、自分の性質が社会にばれるか、ばれないかの瀬戸際で生きることにさらなるMを感じている。面白すぎる。しかし前半中盤後半は少しづつ度合いがメタモルフォシスしていく。Mの称号にふさわしい。アヌスに日本酒を入れたり、窒息ぎりぎりの体験をしたり、、、、最初の感想の通り、「こんな奴いねーよ」という感想だった。だが話の終盤を読み、私個人の見解から話すと「んんん?なんかわかるかも。いるまではいいすぎだけど、気持ちはわかるかも。」だった。ここでストーリを書いてしまうと面白みがなくなるので書かないが、私のイメージから書くと、それは人間がバンジージャンプをするようなものではないかと思った。死というものはそれに辿り着くともはやその時に死は私には存在しないし、特段恐れるものではない。(誰か哲学者が言っていた。が忘れた。)しかしその過程が痛く、つらいから恐れるんだろう。人間は。でも死のその先、あるいは死に到達したとき一体私はどうなってしまうんだろう。これは憧れでもあり、ある意味願望、欲求でもある。痛さより、つらさより、死への恐れより、ふと、私は共感してしまった。それは人間の限界でもあるのかもしれないが。